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韓国の大統領の評価をゆがめたのは誰か!

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独立運動の同志だった金九(キム・グ)、李承晩(イ・スンマン)、李始栄(イ・シヨン)の銅像は、現在全て「南山」にある。とはいえ、同じ「南山」ではない。金九・臨時政府主席、李始栄・韓国初代副大統領の銅像は、素月路と小波路の間にある南山公園に立っている。一方、李承晩・元大統領の銅像は奬忠壇路の自由総連盟広場にある。両者の距離は車で4キロ、タクシーなら4000ウォン(約370円)ほどだ。

もともと李・元大統領の銅像は、李承晩大統領第80回誕辰慶祝中央委員会が「2万人が1カ月食べていける40万ドル(現在のレートで約3930万円)以上」(当時の金泳三〈キム・ヨンサム〉議員の主張)を投じ、1956年に建立した。場所は、現在の南山噴水台の位置に当たる。4年後の1960年に4・19革命(不正選挙に端を発したデモにより、李承晩大統領が下野した事件)が起こると、デモ隊は市内のあちこちにあった銅像を倒し、この銅像も7月に撤去が正式に決定された。

金・元主席と李・元大統領の銅像の距離はわずか4キロだが、平均的な韓国人が2人に抱く認識の差は、その100倍くらいあるだろう。片方は民族の指導者、もう片方は追放された大統領。朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領の銅像は、南山近辺に建立することさえできなかった。まさにここで、右派は語る。「左派が格下げした李承晩と朴正煕の像をきちんと建てるべきだ」

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では「李承晩・朴正煕大統領の評価がゆがめられた」としよう。その歪曲(わいきょく)の「元祖」は誰だったのだろう。本当に「左翼のアカ」が始まりだったのか。

子どものころ、こんな話を聞いた。「景武台(韓国大統領府。現在の青瓦台)でくみ取りをする人まで威張っていた」「李起鵬(イ・ギブン)元国防部長官と李康石(イ・ガンソク)氏(李・元国防長官の実子で李元大統領の養子)が国を操り、事情を知らない李承晩大統領はロボットだった」。1970年代にこんな話をしていたのは、「左派」ではなく、朴正煕大統領の忠実な支持者だった。5・16クーデター(1961年5月16日に起きた朴正熙陸軍少将〈当時〉らによる軍事クーデター)を支持する人々にとって、前政権は無能と腐敗にまみれた存在だった。

http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/09/29/2013092900141.html

‘アカ’ は 国民-非国民 分ける二分法から生まれた

‘アカ’ に追い立て民間人を殺した麗水順天事件
支配権力 危機の度に反対勢力罵倒
“考え違えば アカ(チャッパル:左翼パルゲンイ)…反共内面化の結果”

麗水順天事件を象徴する一枚の写真がある。学校の運動場のように見える広い空地に住民数千人が両側に分かれて座っている。2つの群れを分ける幅3メートル余りの中間地帯には武装軍人らがものものしい警戒を展開しているが、塀後方の市街地から噴きあがる黒煙が住民たちが直面した運命の苛酷さを予告しているようだ。当時<東亜日報>を通じて ‘避難民収容所’ として紹介されたが、実は麗水鎮圧直後に麗水西国民学校で行われた左翼協力者探索場面だ。右側に集まって座った人々は反逆容疑者で、写真撮影直後89人が学校後方に連行され即決処分された。運動場を横切る中間地帯は良民と容疑者の便宜的区分線ではなく生と死の絶対的境界線だった。


「鎮圧軍が市街地を占領した後、一番最初に行ったことが住民を一ケ所に集め ‘アカ’ を選び出すことでした。警察生存者と右翼たちが隊列を調べて回り ‘アイツ’ と指定すればそれで終わりでした。住民たちはこれを ‘指射撃’ と呼びました。彼らを待つのは無慈悲な棍棒打ちと銃殺,斬首刑でした。」

<‘アカ’ の誕生>を出したキム・ドゥクジュン(44)国史編纂委員会編史研究家は麗水順天事件の核心的意味を ‘大韓民国国民作り’ に求めた。スタート二ヶ月を過ぎたばかりのイ・スンマン政府にとって麗水順天事件は「大韓民国国民の資格条件」を審査する契機を提供したということだ。誰かを ‘国民’ と承認するということは、常に ‘国民ではない者’ を区分して排除する過程を伴うが、イ・スンマン政府にとって ‘非国民’ は ‘アカ’ であった。

「アカという言葉は日帝時代からあったし、解放空間でも共産主義者を指し示す用語として頻繁に使われました。ところが麗水順天事件を経てその意味が変わります。単純に共産主義思想を持った者ではなく ‘良民を虐殺する殺人魔’ ‘同じ空の下で暮らせない人間以下の存在’ という悪魔性を獲得することになったのでしょう。反逆者探索作業が行われた学校の運動場は、良民とアカ,人間と非人間,国民と非国民を峻別する空間だったということです。」

もちろん右翼の ‘アカ狩り’ は蜂起期間に左翼が行った虐殺行為が口実となった。実際、反乱軍が掌握した色々な地域で反乱軍と左翼勢力によって警察と右翼の人々が大量に殺害された。だが著者は左・右翼の殺傷行為を同一線上で比較することは問題があると話す。虐殺の規模や対象,持続期間に明確な差があるためだ。

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<‘アカ’ の誕生>

「麗水地域社会研究所の調査によれば、全体犠牲者1万余人の内、95%が国軍と警察によって死にました。地方左翼と反乱軍が殺した人は500人程度です。そして行為の正当性有無を離れ、左翼の虐殺は標的が明らかでした。親日警察と韓民党勢力,左翼弾圧の先頭に立った青年団員たちでしたよ。ところが右翼は違いました。反乱を起こした14連隊軍人と反乱軍占領期に人民委員会活動をした南労党員だけでなく、彼らに食事の仕度をした人,雰囲気に巻きこまれ付和雷同した学生,反乱軍が残して行った持ち物を持っているすべての人が十分な自分弁論の機会さえ得られないまま殺害されました。復讐心のためだと見るには度が過ぎていました。」

実際、犠牲者の中には普段警察と仲が良くなかった検事,左翼に温情的だった女子中校長など右翼名望家もいた。これらは反乱軍に協力した証拠がなかったにも関わらず心証だけで捕えられ処刑された。全市民を敵とみなす焦土化鎮圧作戦の産物だった。彼らはアカだから死んだのではなく、死んだ後にアカになったケースだった。

こういう ‘アカ作り’ には報道機関と文人たちの役割が大きかったというのが著者の分析だ。実際、新聞らは情報獲得の通路が制限された状況で、政府と鎮圧軍の発表内容,市中に飛び交ううわさをろ過することなしに報道し、視察団資格で現地を訪問した詩人や小説家らもやはり共産主義者の非人間的残忍性を浮き彫りにする文を競争的に発表した。これを通じて ‘アカ’ という旗標に含まれる ‘殺人魔’ ‘非人間’ のイメージは国民の意識回路内に堅固に位置した。今や大韓民国国民になろうとすれば反共意識を内面化しなければならなかったし、このように内面化した反共論理は大韓民国60年史を通じて支配権力が危機を迎える度ごとにアカという幽霊を例外なく呼び出した。

「インターネットで ‘チャッパル’(左翼パルゲンイ)という表現を日常的に書くネチズン等を見る度に胸がひやりとします。対北強硬策に反対し集会・示威と思想の自由,労働者のスト権を擁護するという理由で、はばかることなくアカのレッテルを貼ろうとするこれらの思考構造には依然として 良民とアカ,国民と非国民を分ける二分法が作動しています。麗水順天事件はまだ進行形であるわけです。」

文イ・セヨン記者monad@hani.co.kr
写真イ・ジョンア記者leej@hani.co.kr

原文: http://www.hani.co.kr/arti/culture/religion/360919.html 訳J.S

http://blog.livedoor.jp/hangyoreh/archives/676760.html



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[ 2013年09月29日 10:13 ] カテゴリ:韓国社会 | TB(0) | CM(0)
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